金光教とは

金光教の神様は、「天地金乃神(てんちかねのかみ)」という名前の神様です。

意味は、天と地と、その間の空間をつかさどる神様、という意味と考えています。

「川手文治郎(かわてぶんじろう)」という人です。

1814年、岡山県の田舎に、農家の二男として生まれました。 12歳の時、養子に行ってこの名前になりました。

養子の身で、小さな農家を大きくしようと、一生懸命働きましたが、養父、弟、長男、長女、二男を次々に亡くし、

自分も42歳の時に、のどが腫れて水も飲めなくなりました。 この時、義理の弟さんの口を伝って、神様と初めて会話をしました。

その後、46歳の時、神様の頼みを受け入れて、農業を止め、結界(けっかい・・・神様と信者の間を取り持つとされる所)に座り、

多くの難儀な人を助ける御用(仕事)をしました。

そして1883年に70歳で亡くなりました。

いろいろとありますが、上で述べた、信者一人一人の悩みを聞き、神に祈る結界取次(けっかいとりつぎ)は、その一つでしょう。

本部では、金光教の教主(一番偉い人です)に、結界で直接会え(予約は要りません)、悩みを相談できます。

このことは結構すごいことだと思っています。次に、金光教は他の宗教を否定しません。

世界で、宗教を元とした争いがありますが、この否定しない姿勢は、世界平和に通じると思います。

また、金光教の教会には、決められた会費はありません。

ですから、自らの意思で供えるもの以外の強制的な会費はありません。

(当教会は信徒会があり、その会費-月400円は信徒会に入ればかかります。

当然、参拝をやめたければいつでもやめられます。きれい事のようですが、これが金光教の建前=教祖様の方針です)

金光教はわぎょう(滝に打たれたりなどの修行)を否定はしませんが、それより、日々に生活の中で、

どのように良い仕事や人間関係を築けるか、自らの病気などを良いように考えられるかなど、

日常そのものを修行としています(これを心行と言います)。

金光教の教会は本部の傘下にありますが、会計上の強制的な上納金はありません。

教会の建築も、認可は受けますが、原則的に教会任せです。

これは、裏を返すと、教会の盛衰は、教会長の責任に拠るところが大である、ということです。

一面では厳しいですが、この教会の独立性が金光教の特徴の一つです。