福岡高宮教会の歴史

現在の滋賀県マキノ町出身の吉川定七(1839年生まれ)は、長男でありながら、家業を継がず、京都に出て板前修業をした。

そして、成功し大観楼(たいかんろう)という仲居さんが40~50人いる料亭にまで店を大きくした。

しかし、子供は男の子が育たず、長女・ウタに婿養子を迎えて、家業を継がせた。

しかし、ウタの子も次々に六人も死に、最後の子、定治郎も緑内障(視神経が腐る病気)で失明した。

家業も、定七がコレラに罹って死ぬと一気に傾いていった。

婿養子(夫)にも逃げられたウタであったが、妹婿・福島新太郎の誘いで、

一度はあきらめた定治郎の目が開くようにと、金光教内堀説教所(現・中立売教会)の門を叩いた。

ウタは今岡準三郎教会長を信用し、半年ほど「朝起きたら二度寝はせず教会に参拝する」という修行を続けた。

そうしたら、定治郎の目に明かりが見えるおかげ(ご利益)を頂いた。

しかし、大観楼はつぶれ、ウタは女中として働く身になり、程なく、目が見えるようになった定治郎も、デッチ奉公に出るようになった。

つらいデッチ奉公の末、明治45(1912)年に独立を果たした定治郎は、一時成功するものの、 大儲けをねらって北海道の博覧会に出品したところ、大損を出し、満洲の奉天に渡る。 右も左も分からない奉天で、金光教奉天教会所を見つけた定治郎は、再び参拝を始め、稲津博見教会長の話を聞くうちに、 『自分はめぐり(難)が深い人間である』と自覚し、教会修行に入る。

五年半の給料なし休みなしの修行の末、北満のハルピンに布教した定治郎は、 迎えた妻・チヨノとの二人三脚の布教で、信者を助け、当時は日本本土でも少なかった一等教会にまでなった (戦前は、教会の一等から十等までの階級があり、主に、御本部へのお供えによって決まっていた・・ 現在は、教義に沿わないため廃止されている)。 教会は借家であったが、身のめぐりを自覚して、御本部や親教会(奉天教会)によく尽くした。

しかし、第二次世界大戦の敗北で日本に引き揚げた一家(当時は子供が6人になっていた)は、 肺結核で亡くなったチヨノの願いで、三代教主様の取次を頂き、福岡に再布教する(昭和24年)。 そして、25年末に正式に教会になり、2度の移転を経て、現在の福岡市南区高宮の地に布教地が定まった。 しかし、それからも、定次郎の長男・信雄が、母と同じ肺結核で九死に一生のところを助かったが、 定治郎は、昭和40年2月11日、胃がんのため67歳で生涯を閉じた。

その後を、昭和33年に教師になった信雄が継ぎ、最初200坪弱だった境内地を順次広げ、若き六角鬼丈氏に設計を頼み、昭和55年に会堂を完成させる。 そして、平成9年には三信ホールも建築した。なお、教会裏の奥城は、信雄の設計で、昭和49年に出来上がった。

当教会は平成13年3月25日に開教満50年祭を仕えた。

平成14年1月1日、吉川信吉が三代目教会長に就任し、平成23年の60年祭を経て、令和3年の70年祭に向かって、布教を進めている。